山本勝之助商店とリアルジャパンプロジェクトのお付き合いは、かれこれ5年ほど前から始まりました。まだネットで箒を売っていない頃、リアルジャパンプロジェクトを設立する前に山本勝之助商店を訪れ、代表の土田さんに会い棕櫚箒の取り扱いをさせてほしい事をご相談させていただきました。それから山本勝之助商店さんとのお付き合いが始まりました。
 
 
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山本勝之助商店がある和歌山県の海南市は、縄文・弥生時代の遺跡が数多くあり、その時代の石のお皿や斧、ナイフ形の石器等が見付かっていて、その時代から人が生活していた様子がうかがえます。海南市は、紀州漆器の産地でもあり古くから工芸の町として知られ、今では和歌山を代表する伝統工芸品となっています。他には、家庭用産業が盛んであり海南市のみならず和歌山を代表する地場産業の内の一つに。その地場産業の一つとなっている家庭用産業はもともとは棕櫚(シュロ)を材料とした道具や雑貨が作られていた事から始まります。江戸時代にはすでに棕櫚製品が作られていたと言われており、たわしや箒、縄や網など様々な道具が作られていました。昭和に入ると加工業や化学繊維が発達し、時代に合わせてそういった新たな素材でタワシやブラシをつくり人々の生活に合わせて作りながら成長して来ました。
 
同じく昭和のその頃山物屋である山本勝之助商店でも、化学繊維で作られたタワシや、ナイロンの傘、カッパ、金物屋さんへの総合卸もしていたのでそういった山の道具は全て扱っていました。山本勝之助商店のある海南市阪井ではその昔は、荷物が運ばれる経過地点となっていて、海草郡美里町にて荷受けし、そこから棕櫚や木炭など阪井、黒江、を通り名高まで運んでいた歴史があります。
 
 
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1月の終わり、山本勝之助商店へ初めて訪れた私は到着して、古い建物に見入りました。
 
国の登録文化財にしてされている山本勝之助商店の母屋、店舗、蔵は中も昔のままの姿で残っていました。そして11棟ある広い敷地の中庭には大きな古い太鼓が下がっていました。
昔、まだ職人が多い時代、この中庭にある太鼓を大きく鳴らしてお昼時間の合図として鳴らしていた太鼓。その太鼓を眺めて想像すると、その時の光景が目に浮かぶようでした。
 
現在は、職人は別の場所で箒を作り、山本勝之助商店のその広い敷地には、今はもう土田さんともう一人の従業員の方2人のみです。太鼓を鳴らしてお昼時間が始まる様子と比べると少し寂しい気もしますが、お正月にはその中庭に集まって餅つき大会をして賑わっているそう。
 
 
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更に建物の中には、広い倉庫があり現在は出荷作業をする場所となっています。昔は2階に上る階段は無く、ハシゴで上がっていたそう。2階の天井から下がる滑車は、現在も2階から荷物を降ろす際に使っています。
 
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2006年、先代が亡くなり土田さんは山本勝之助商店を継く事を決意
 
先代は土田さんの義父にあたり、元々電気メーカーに勤めるサラリーマンだった土田さんは、いわゆる脱サラをして継ぐも引き継ぎも何も一切なく手探りで、出来る事から始めたと言います。山物屋として化学繊維のたわしやカッパ、傘など様々な物を扱っていましたが、他でもやっているような物を置いていてこのまま同じ事をやっていてもだめかもしれない。そう考えた土田さんは、出来る事から、自分が気に入った物から、と考え取扱いを絞りました。天然の素材で仕上がり、地域の物であり、残していきたい物、それが棕櫚箒と山椒だったのです。
 
 
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棕櫚製品と山椒は、他にはない
 
電気メーカーに勤め言わば掃除機を売る仕事をしていて、箒の対局にいた土田さん。土田さんは棕櫚製品と山椒は、自信を持って扱えるという確信をしてその2つに取り扱い商品を絞りました。棕櫚箒を復刻する為に近隣の職人を探してお願いし箒を作ってもらい、棕櫚箒が復刻。そういった経緯や、先代から継いで試行錯誤しながらお取引先や購入してくださるお客様、ご近所さん、人との関わり方の大切さを感じ、土田さんが仕事で一番大事にしている事は人と人の繋がりだと話します。商売をする上でもですし、お客様がどのような商品を求めているのか、新しいアイディアや、改善出来る事に耳を傾け、自分たちの商品をいかに使っていただけるか常に考えています。
 
 
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商売に役立ちそうと習い始めた、料理、書道、英会話、今では趣味に
 
当初、人が集まるようにと建物を古民家カフェにしようと考えていた時期に料理学校に通い、
看板やラベルに自分で筆でかけたら面白いかもと書道を始め、
海外に商品を知ってもらいたいという思いで英会話を始めたそう。
 
現在販売している山椒のラベルの商品名は土田さんの直筆なんです。古民家カフェは実現とはなりませんでしたが、料理の技術が身に付き奥様からのリクエストで、今では、月水金日の食事当番、火木金は中学生のお嬢さんと自分のお弁当を当番しているそう。土田さんの当番の日が多くて思わず笑ってしまいました。土田さんも「趣味というよりは家族サービスかな」と笑って話していました。
 
一番心休まる時は、書道の時間。書いていると精神統一ができ、集中力が高まるそう。仕事がいきづまった時や先の一歩が出ない時に、書道をすると考えがまとまり、書道は今後もずっと続けていきたい趣味。土田さんは、山椒を海外の人に知って欲しいと、英会話を学び始め、近年ではパリやベルギーに行っているそう。でも、ことごとく英語圏内ではなく、まだ発揮できてないとまた笑いながら話してくださいました。
 
 
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山椒は、そのままの状態で採れたての味、香りを保ったまま他へ持って海外へ出すと、山椒自体知らない方がほとんど。日本人でも山椒を知っていたも美味しい味を知らない方も。山の農家に人達は山椒の味は当たり前のように知ってる。それを知らない人達が沢山いる。そのギャップを感じ、現地でしか味わえな物を全国各地、世界へ、橋渡ししたいと思い、そしてそれが自分の役割としてこだわりを持っています。人と人の繋がりを大事に、生産者の方とは頻繁にコミュニケーションをとり、実際に食べた人の意見も聞いて、生産者とお客様との間の立ち位置として山椒を広めていきます。山椒の魅力はなんと言っても、痺れて香りがいいそのギャップが魅力。蜜柑化の植物の香りとビリビリした味、この両方を併せ持つものは他にはない、それが山椒の魅力です。
 
そして棕櫚箒の魅力は、天然の素材であり、化学的な物を一切使わずに仕上げている昔のままの技術。竹ひごを挿し、ピンを挿している昔ながらの作りは、どうしても抜けてしまう事も。プラスチックにして接着剤を付ければ絶対に抜ける事は無くなるけれど、でもそれはあえてせず、古くからある組み方を残している事を誇りに思い、職人が残してきたその技術をこれからも残していきます。
 
 
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棕櫚箒の一番最初の原形は、ハタキのような束状の物。棕櫚を竹の棒につけて、布で巻いていました。巻いていた布が、鉄になり、それから現在使用している銅線となりました。昔は、どの家庭にも棕櫚の木が庭に植えてあり、家庭で自ら作っていた棕櫚のハタキは、掃けるようにと幅を出す為に玉を作り始め、棕櫚製品の道具として増えて行きました。
壊れないように、抜けないように部品を作れば竹や釘が抜ける事はなくなりますが、天然素材で銅線から一つずつ組み上げていくこの技術は、機械が無くても一から作れる、いつの時代でも作れる。家庭でも作れる、それが古くからある伝統的な技術。掃除機の出来ない事を補える棕櫚箒は、排気が出る事も無く、小さいお子さんにも優しく、音がでないので現代のような共働きの家庭でも夜にお掃除をする事が出来ます。箒は集める機能しかありませんが、吸い取りたい場合は掃除機の出番です。便利な物は立派な文明の発達した道具であって、合わせて上手に使っていけると良いと思います。箒ならではの掃き心地を感じて頂きたいですね。
 
 
 
こんなに売れるようになるとは思っていたなかったと話す土田さん。
一番最初は、そんなに売れる事はないだろうと半信半疑。けれど、この5年で箒の生産数は10倍に。職人の後継者がいない事が問題となっていましたが、きちんと商売になる事で、職人の息子さんが後を継ごうかという選択肢ができたそうです。こんなに嬉しい事はありません。
 
 
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正月には餅つきに来てくださいね!と最後はお二人そろって見送ってくださいました。
地域や人のあるがままを知る為に、これからも様々な現地へ足を運びたいと思います。