長野県の南部に位置する、伊那市高遠。

南アルプスと伊那山地の山間にある高遠は、戦国時代に武田信玄の大軍が高遠頼継の高遠城を囲み、のちに伊那を拠点に他方へ進出した歴史深い場所として知られています。

優しい静寂に包まれ、自然の四季を感じる、美しい高遠の風景。その中には、ひとつひとつ自然に寄り添ったかたちの生活と仕事があります。

雄大な山の連なりを背景に佇む、陶器職人の宮﨑匠さんの陶房。宮﨑さんは陶芸一筋で修行し、厳格な審美眼でうつわを制作しています。

出身の東京を離れて、信州の地で出会った縁から高遠の地で作陶する宮﨑さんのものづくりに迫ります。

 

精巧を極める京都の陶磁器職人をみてきた修行時代

 

――宮﨑さんは陶芸のどんな部分に魅力を感じて、はじめられたのでしょうか。

最初は魅力を全然感じていませんでした。高校3年まで何も勉強せず進学を考えたりしていませんでしたから、何かをしないといけないと秋頃になって父親が焼き物をやっていることを理由に焼き物の職業訓練校へ行くことを決めました。

――どちらの職業訓練校へ行かれたのですか。

京都の東山五条にある訓練校へ2年間、そのあと同じ京都市内の窯元で6年間修行をしました。

――訓練校での2年間はどんなことを学ばれていたのでしょうか。

最初は土もみからはじまり焼き物の基礎ですね。

代表的な陶磁器産地の瀬戸や有田の訓練校では、他に機械的な窯業技術についても学びますが、京都の訓練校はひたすら湯呑みやお皿をつくる毎日でした。

――修行された京都の環境はどうでしたか。

京都はもともと焼き物の材料があまりない場所で、他からの陶土や磁土、粗悪品などを原料にして技術で補っていたような地なんですね。

京都の職人の、無駄のない動きや正確な仕事ぶりは人間機械なものでした。絵付けの人であれば1か月同じ線ばかり引いていたり、技術の精度に重きを置いているところで、手仕事だからこそ対応できる柔軟さがあります。

 

光りが透けて見えるほど薄い湯呑み。これは訓練校時代に宮﨑さんが制作していたもの。

 

――京都の窯元はどんな系統だったのでしょうか。

系統は民芸ですね。

 

――窯元での修行は具体的にどんなことを。

修行先の窯元は京都の郊外に窯を持っていて、年に一、二回登り窯を焚きます。一回の窯焚きの準備を約一か月かけて行い、窯を終えてから片付けに約一か月という感じで主に窯の準備ですね。あとは粘土をつくったり、そういうことを経験したあとに轆轤や釉薬の下掛けをやっていました。

 

▲宮崎さん作の陶器のピッチャー。どこかヨーロッパのアンティーク陶器を彷彿させる大らかな表情。

 

 

信州で重なる縁が民藝のうつわを目指すきっかけに

 

――京都の地で8年間修行したのち、どうして伊那市高遠を選択されたのでしょうか。

東京に住んでいたとき、陶芸をやっている父が信州の奥地にいい場所をみつけたと言って東京から高遠へ引っ越すという話になったんですね。ですが、そのときはこの場所の住所がとれなく、僕は東京の高校にそのまま通っていたんです。

卒業して京都に行き、修行が終わって独立するか何をするかを考えたときに、高遠の家には轆轤や窯があるから一度戻ろうと思いました。帰ってきて最初の1年は父親の手伝いをしていて、そのあと自分の焼き物をつくりはじめました。

 

 

 

 

最初は民藝寄りの磁器を中心にやっていました。この先も磁器でやろうと考えていたんですが、ある日に高遠で土が発見されたと知り合いから連絡がありまして。詳しい話を聞くと、工事をしたら粘土が出てきたと。

また当時、たまたま露店市に焼き物を出していたら長野県の民藝協会の方に協会に入らないかと声をかけてもらい、そんなことがちょうど重なった時期でした。

 

――その土地でつくれるものをつくりたいと考えられたんですね。

高遠に来た時には地元の土が採れるとは思っていませんでした。

釉薬になる稲や藁など他の材料もこっちにあるので、それだったらここでしかできないものを作った方が良いかと思ったんですね。

 

 

▲陶房が山の上部にあることからガス配達が難しく、薪窯を準備中だと話す宮﨑さん

 

その土地ならではのモノをつくって、

職人として生きていきたい

 

――焼き物のかたちはどんな風に決まるのでしょうか。

頼まれたものをつくるやり方が多かったです。個展をやってくれとかグループ展に誘われると、自分のものをつくらなくてはダメなのですごく迷ってしまいますね。こういったかたちで、こういったものをつくってくれと言っていただいた方がラクです。

――相手に合わせてつくっていきたいということでしょうか。

そうですね。

焼き物はひとつずつじっくり見ると違うんですけど、100個や1000個同じものが並んでいる状況ならば、同じものが並んでいるな、くらいでいいと思います。

――自分は陶芸家ではなく職人だと。

そうですね。そのままいければいいですが。

実際に僕が考えている理想は高遠だけで焼き物が売れて食べていけるなら、それがいいと思っています。

 

▲ぽってりとした柔らかさが心を和ます急須。片手で扱うときも、蓋やつまみに親指が届きやすい。

 

――地域に根差し高遠の中で売ることができたらいいという、その魅力はなんですか。

地域で完結するものが集まって暮らしているのって面白い国だなと思っています。日本中、世界中のものがどこかに集まって完結しているのは、つまらないように感じます。

高遠とかこの辺は手に入らないものが多いので、東京に行くと珍しいものに会える。逆に東京にはないものがこっちにあると楽しいと言うか地域の魅力になります。

閉鎖的な意味ではなく、地域でできることを他から持ってきて、やるというのは変な感じがします。まあ好き嫌いはあると思うのですが。

――いつごろからそういうことを考えていましたか。

粘土が手に入ってからです。それまでは長野県の人があまりものを買わないと思っていました。なので、東京や大阪とか都会で焼き物を売っていくしかないと思っていました。

ですが話を聞いてると、高遠でも昔、焼き物がある程度盛んだった時期があったようで、地のモノを使っていると結構観てもらえます。

 

 

―宮崎さんにとって高遠の地はどんなところがいいですか。

干渉の少ない静かなところがいいですね。

売れるか売れないかは別として、ものをつくる環境としていちばん集中できます。

―今後はどんなものをつくりたいと考えていらっしゃいますか。

需要が多くて、自分にできるものですね。

昨年までガス窯を使って作っていましたが、これからは窯が薪になるので全く状況が変わってくると思います。

まずはちゃんと作れるように、しっかりコントロールしていきたいと思います。

 

 

陶器職人 宮﨑 匠

1983年東京都青梅市生まれ。京都の窯業訓練校を経て、京都市内の窯元で6年の修行。2010年から実家の長野県伊那郡高遠町に戻り、父の宮﨑守旦氏とともに作陶。自然素材を活かした大らかな表情のうつわは、生活の中の美を創造する。宮﨑氏の作品は、長野県松本市にあるGallery senに常設展示している。