価値観が多様化する社会において、「伝わる言葉や商品」を生み出し、発信し続けている人物がいます。プロデューサーの中上寛基さんは、もともとクリエイターとして広告制作に携わったのち、今日では数多くのブランディング戦略に携わり、人の心を掴む商品やサービスを世に送り出しています。そんな中上さんに、日本の歴史の中で残っていく商品とはどういうものなのか、またモノづくりの根底にあるべき考え方について語って頂きました。

 

 

営業マンから徐々に自分自身を進化させてきました。

 

――はじめに、中上さんのお仕事の遍歴を教えて頂けますか?

 僕ははじめコピーライターでしたが、そこからクリエイティブディレクター、プロデューサーと自分自身を進化させてきました。大学在学中に友人と同人誌を作ったことがあり、もともとクリエイティブの分野に興味はあったのですが、それを仕事にするつもりはまったくありませんでした。でも、広告代理店の営業マンだった時の仲間がコピーライターをやっていると聞いたのがきっかけで、興味を持ちました。

 

――そこで、営業から制作に鞍替えしたということでしょうか?

広告営業をやりながら大阪のコピーライター養成講座に通い、広告の制作について一から学びました。まずは一般コースに通い、次に専門コースというゼミ形式の講座に参加し、コピーとは何かということを学んでいきました。卒業後、講師の方の紹介で、制作会社に入ることになりました。それからは、毎日チラシの見出しを徹夜で書いて、ひたすら腕を磨きましたね。1行、2行と書く量が増えて、その次はDMを書くようになり、徐々に仕事を増やしていったという感じです。そうして2年ほどが経ち、26歳になる頃には、気が付いたらどんなものでも書けるようになっていました。

 

下積み時代は、新聞広告のコピーを

原稿用紙に毎日繰り返し写していました。

 

――中上さんのターニングポイントはいつでしょうか?

下積時代ですね。当時はたとえ徹夜をしても、必ず毎日、その日の新聞から自分が面白いと思った広告をひたすら原稿用紙に写していました。それを繰り返すことで、徐々に広告の文章のリズムを掴めるようになったのです。有名なコピーライターの書く文章の流れ、句読点の打ち方、文字の詰め方などを実感として学び、自分の文章のスタイルを確立していきました。その経験は、ディレクターとして仕事をするようになってからも活きていると実感しています。

そうして少しずつ自信をつけ、ようやくコピーライターとして広告代理店で働き始めました。僕はコピーだけでなく企画書も書けるということで重宝がられ、いろいろなところから声をかけて貰いました。当時はそういうライターが他にいなかったんですね。そうして順調に実績を積み、新規のクライアントを任されるようになり、結果、ディレクターとしてキャリアアップすることができました。

 

――広告代理店でコピーライターとして働いた後、プロデューサーになるまでにはどんな経緯があったのでしょうか?

広告代理店ではさまざまなクライアントからの仕事に対し、企画とコピーを考え、ディレクションをするなど、今の仕事の原型になるようなことをしていました。徐々に大きなプレゼンテーションに参加し、仕事を取れるようになり、入社して1年ほどで昇進できました。ようやくゆとりのある生活ができると思っていたのですが、当時の上司と反りが合わなくなってしまって。そんなタイミングで別の制作会社から誘いがあり、クリエイティブディレクター兼取締役として入ることにしました。そこでは、クライアントをたくさん取って会社の発展に貢献したと自負しています。

 

 

――当時は、具体的にどのような仕事をされていたのでしょうか?

ある電子機器メーカーのキャンペーンで、坂本龍一や写真家のハーブ・リッツと一緒にニューヨークで撮影をしましたし、ロサンゼルスでの仕事もありました。当時の僕は、大阪にいながらも海外の有名なクリエイターと仕事をしたいという想いがありました。派手なプレゼンテーションをしていたので、大阪では一目置かれた存在だったと思います。

 

日本人であるからといって

引け目を感じることはありませんでした。

 

――海外のトップクリエイターと仕事をするというのは、貴重な体験になりましたね?

当時はちょうどバブルの時代で金銭的な余裕もあり、好きな仕事を選んでやっていました。プレゼンテーション能力を活かして、誰と一緒に仕事をしたいかといった個人的な欲求を、クライアントに通すことができていたんですね。誰に怖気づくことなく、自分なりのスタイルを通していました。30、40代の一番元気な年齢でしたから、時代に上手く揉まれながら成長していけたという印象です。

 

――海外で仕事をする際に、違う目で見られるようなことはありましたか?

僕もプロ意識があったので、お互いプロ同士という認識で、日本人であるからといって引け目を感じることはありませんでした。若い時はそのぐらい自信があって、自分はできると思っていたので、相手と対等とまでは言いませんが、こちらが向こうをキャスティングしているのだという強い意識で接していましたね。

 

日本のモノづくりは、技術力だけでなく

独自の発想力を養うことが必要だと思います。

 

――中上さんは、日本のモノづくりをどう見ていますか?

僕らの時代は、広告とかマーケティングというところでは遅れていたかもしれませんが、独自の発想力においては、日本人はまだそんなに世界と差はなかったと思っています。しかしデジタルが進化した時代に、海外の頭脳や発想力に押されていったのでしょう。モノづくりに関しては、伝統工芸についての評価は得ていますが、それを超えた商品がないですよね。日本人のきめ細やかさや技術力は確かにすごいのですが、新しい発想が出てきていないというのは残念だと思います。もう少し、テクノロジーだけではなくて、発想力を養うような何かが必要なのではないでしょうか。

 

――日本のブランドで、感銘を受けるようなものはありますか? 

コムデギャルソンですね。何十年もずっとやり続けているというところが、川久保玲さんのクリエイションのすごさだと思います。常にいい意味で驚かされるからこそ、もう何十年も着ています。川久保さんに限らず、ジュンヤワタナベもそうですね。彼の特徴は、どちらかというと発想・編集する能力でしょう。そういうものが日本人には欠けている気がしますね。昔で言うところのVANのような、世の中を変えていくようなクリエイションが今はなくて、少し寂しい気がします。

 

 

これからは、まったく別の商品に生まれ変わるような意外性のあるモノづくりが必要。

 

――日本のモノづくりの技術は素晴らしいですが、もっと広く知られ、使われるようになるにはどういう風にブランディングし、商品に反映していくべきなのでしょうか?

商品を選ぶ決め手は、理屈ではなく直感であると思います。自分自身、街を歩いていて、何も気に留めることがなくなったら終わりだなと思っています(笑)。食器や看板など何にでも興味を持ちますが、仕事柄、言葉はすごく見ますね。目に留めて貰うには、普通では考えつかないような意外性のあるモノづくりが大事なのではないでしょうか。

最近好きな言葉は、「ライフサイクル」です。昨今はオリジナリティがなくなってきているので、今あるものをまったく別の商品に生まれ変わらせるような、驚きを伴ったモノづくりを考えられないものでしょうか。

 

「伝える」ではなくて「伝わる」ということが大切。つくったモノが相手に伝わっているのかを考えること。

 

――現在モノづくりをしている人たちには、どんなスキルが必要だと思いますか?

「伝える」ではなくて「伝わる」ということが大切なのだと思います。伝えることは誰にでもできますが、最終的に伝わらないと意味がないですよね。もともと僕はコピーライターということもあり、いかに伝わる言葉にするかというのを常に意識しています。伝えるだけではなくて、伝わる言葉を生み出せるかというのが原点です。それはプロダクトにおいても同じではないでしょうか。モノをつくるだけで満足するのではなく、どのように相手が感じ取っているか、きちんとそのモノ自体が伝わっているかを考えることが重要です。最終的には生活雑貨のような、例えば柳宗理のプロダクトのように、良いデザインで実用性が高いというのが、究極のアート&プロダクトと言えるのではないかという気がしますね。

 

――中上さんが考える、日本のモノづくりにおいて大切な要素とは何でしょうか?

結局は、使われないものは歴史の中で残っていけない。今日残っているものは、今日も使われているモノ。その考え方が、自分の中に原点としてあります。やはり気に入って、買って、使う。基本は、そういったモノづくりができるかどうかではないでしょうか。

 

 

中上寛基

1986年にカルチュアコンビニエンスクラブ(株)/TSUTAYAの立ち上げにグループ会社として参画。TSUTAYA事業のコンセプト立案、FC事業の仕組み、店舗戦略など、「TSUTAYA」ビジネスモデル成功の基盤を創る。1998年に有限会社ケーススタディを設立。1990年にカルチュアコンビニエンスクラブを退社した後は、ドトールコーヒーなど数多くのブランディング戦略に携わり、企画/制作/広告販促などを担う。2007年には(有)SOCIETEを設立し、現在はプロデューサーとして活躍中。主な仕事にTSUTAYAのほか、NEC C-lifeキャンペーン、MIZUNO の広告、DOUTOR COFFEE Re-Brandingなどがある。

 

Text_Kaori Kawake(lefthands) Edit_Shigekazu Ohno(lefthands) Photo_Isamu Ito(lefthands)