Interview with a leading creator vol.8
Naoki Sakai/Concepter
 
トップクリエイター・インタビュー vol.8
坂井直樹(コンセプター)
 
Photo_Kazuya Hayashi/Text&Edit_Nao Omori
 
 
日本各地に連綿と受け継がれるモノづくりの伝統と技術。REAL JAPAN PROJECTでは、それを日本のみならず世界へ向けて発信するべくさまざまな活動を行っています。ここでは、日本には国内はもとより、世界を舞台に第一線で活躍をされているクリエイターの方々をお招きし、ご自身の活動や日本のものづくりについてインタビュー。第8 回目のゲストは、60年代にサンフランシスコで「Tattoo T-Shirt」を大ヒットさせ、80年代には日産「Be-1」や「PAO」で一世を風靡、現在はウォーターデザインの取締役、慶應義塾大学の教授を務めながら、常に時代に斬新な風を吹き込むデザインを生み出すコンセプター坂井直樹さんです。
 
――坂井さんはどのような想いからデザインの道へ進まれようと思ったのですか?
 
叔父はむかし絵描きを目指していた人間で、なんとか僕を絵描きにさせたかったみたいなんです。ですので、5歳くらいから油絵だとかそういった教育は受けていたんですね。高校2年生までは京都大学へ進学するつもりだったんですけど、高校3年生くらいになって急に「僕にしかできないことを考えた方がいいんじゃないかな」と思うようになって、1年程芸大へ行くための準備をして、京都市立芸術大学に入学しました。10代の頃にちょうど60年代を迎えて、当時は横尾忠則さんなどが時代を象徴するデザインだったんです。60年代というのは、部落学生運動やウーマンレボリューション、ゲイパワー、フラワーなど、世界中で革命がおこっていた時代。そのころに「デザインっておもしろいな」って思って。叔父は僕がデザイン科に進んだことに、失望していましたけどね(笑)。商業絵描きは身分が低くて、純粋なアートをやるひとが尊いような、そんな時代だったんです。僕たちがヒーローだと思ったような人たちは、アンディ・ウォーホルだったり、ビートルズやボブディラン。音楽もいまの音楽と違って、メッセージ性の強い時代のシンボルとなるようなものでした。いま考えると60年代というのは、1800年代の中盤に起こった産業革命によってモノが徹底的に安く生産されるようになり、工業化社会がほぼピークに近づいていたんですよね。そんな時代に感じたのが、デザインだったんです。
 
――坂井さんは大学でとても目立っていらっしゃったそうですね。
 
非常に目立っていたらしいです(笑)。大学は、先生たちも普通の大学とはちょっと違っていたし、家庭的な雰囲気で、とても恵まれた環境でした。だけれど、僕はそれでも大学にいることに価値を見いだせずにいたんです。当時は日本で初めてのロックフェスとなったMOJO WESTを開催したり、ジョー山中さんとサイケデリックパーティを主催したり、大学以外の活動の方がずっとおもしろかったんですよね。大学ではバウハウスからはじまったようなベーシックな教育で、いわゆる”グッドデザイン”。僕らはその頃から跳ね返りものだったから、”バッドデザイン”と呼んでいて「”グッドデザイン”なんか意味がない」とか、生意気にも叫んでいた。いま思うと恥ずかしいものです。結局、大学は1年半で中退して、アメリカに渡ってしまいました。グラフィックをやっていて思ったことは、例えばロックフェスのチケットのデザインの良し悪しでチケットが売れるのではなくて、お客さんは出演者が見たいから来る。だからグラフィックデザインがもつ力って、そんなに大したことないって思っていたわけです。でもそれは大きな誤解で、デザインはやはり力をもっているんですね。
 
――デザインの可能性をより深く感じるようになられたのはいつ頃ですか?
 
アメリカのデザイナー、レイモンド・ローウィさんが、ピースのパッケージを500万円くらいでデザインしたんです。現在で換算するとその10倍くらいですよね。なんとなく、そんな意味での可能性は感じましたね。デザインというのはバリュー・メイキングなんだなと。大学ではバウハウスの影響を色濃く受けたオーセンティックなことを学んでいて、バウハウスはもちろん素晴らしいのですが、僕はサイケデリックやヒッピーカルチャーを享受していたので「僕らが思うようなより良い社会に変わってほしい」と思っていたころですね。僕がいた60年代のアメリカは、髪の毛がどれだけ長くてもいい、どんな服装でもいい、という初めて迎えた自由な世界だったんじゃないでしょうか。それはニューヨークではなくて、サンフランシスコだったんです。
 
――そんなサンフランシスコの地において、大ヒットしたのが「Tattoo T-Shirt」ですよね。もともとどんな経緯でデザインされたものだったのでしょうか?
 
「Tattoo T-Shirt」は日本でデザインしたものなんです。京都市立芸術大学というのは、毎年、学年末に京都国立美術館で展覧会を開催するんですね。そのときに僕が出展したものはふたつあって、ひとつは透明のビニールで作った服でのファッションショー、もうひとつが「Tattoo T-Shirt」でした。その「Tattoo T-Shirt」が非常にイノベイティブだということだったんです。1970年前後というのは、アパレルがなかったんですよ。イッセイさんがアパレルを始めたのが1970年代だったから「Tattoo T-Shirt」を発売したのがその数年前。そういう意味でいうとデザイナーが表現してつくった服というのはなかったんですね。それを始めたられたのが、キクチタケオさんやイッセイさん。最高のデザインをある程度の量で生産するから安く買える、という時代です。それまではごく特定の人たちだけに”アパレル”というか、オートクチュールが存在していて、この頃からファッションの業界が大きく変わり、一般の人たちが対象になっていますね。
 
――坂井さんのお肩書きは”デザイナー”ではなく、”コンセプター”とされていらっしゃいます。その所以を教えてください。
 
“コンセプター”というのは、造語なんです。語源である”Conception”の意味は”解体”ですから、”新しい命を生み出す”みたいなことを、自分ではイメージしていたような気がしますね。でも実際は”コンセプトワーク”という言葉で自分の仕事を表現していたので、それを”コンセプター”といったのはスターダストプロモーションの代表取締役である細野義朗さんなんですよ。彼が僕をテレビの世界に放り込み「テレビにでるならもっと短くしろ」って話になった(笑)。1991年前後の3年間は、テレビのレギュラーが3本ありましたから。ですから、テレビ向けにつくった肩書きということになりますね。でもこの名前はけっこう正解で、僕が”デザイナー”と名乗っていたら取材はこなかったかもしれない。深澤直人くんなんかもそういってくれるんですけど、一番メディアに露出していたデザイン関係者だったんじゃないかな。しかも、デザイン誌とかではなくて、一般のメディア。それまではプロダクトデザインはもっと地味な世界で、僕がテレビにでるようになって華々しくなってきた、というのはあるかもしれませんね。外国の方は僕のことを英語で”Design Entrepreneur”といいます。”デザイン企業家”だという意味でね。それもちょっと改革っぽくて、ある意味正しいかもしれません。
 
――お肩書きひとつとっても、まさに”イノベーター”でいらっしゃる印象を受けますが、これからデザインを志す方たちに伝えたいことはありますか?
 
いま世の中にないものをつくることがクリエイターの使命である、そんな風に考えてほしいですね。一般的に大企業なんかは他社が売れている商品をもっていると、それに似た商品をつくるじゃないですか。真似られることは素晴らしいことだと思うけど、真似をすることはとてもみにくいことだと思うんです。僕のやっている仕事も割と真似をされることが多いのですが、それは僕にとっては嬉しいこと。たとえば日産「Be-1」や「PAO」がなければ、「FIAT 500」も「Volkswagen New Beetle」も出てこなかったでしょうし。まぁ、ほかの誰かがやったかもしれませんけどね。僕はファッション業界からいきなり自動車業界に入ったので、車を風景として捉えたんです。四角い車がたくさん並ぶ景色の中に、丸いフォルムの車がぽんっといるといいなぁって思ってね。だからまったくエンジニアリングでもないんです。ただそれは80年代だからこそ許されたことであって、いまのデザイナー志望の若者にいうとすれば「プログラムをかけますか」ということ。だから理系の方がいいんですね。iPhoneをみてもわかるように、ユーザーインターフェースがあって、その向こう側にはネットワークサービスがある。パッケージはもちろん大切なので、その全部がデザインの対象になるんです。だから事態はもっと複雑になっている。「Be-1」にパッケージデザインを置き換えてバリュー・メイキングする、という方法はもうないんですね。僕らの時代のデザインやアートというのは、彫刻家、絵描き、建築家、音楽家など、すべて領域ごとに使う道具が異なっていました。しかし、コンピュータがあれば全部できるんです。コンピュータというあらゆることを行えるツールを構築しているのはソフトウェアですから、ソフトウェアを理解していないと、たぶんプロダクトはつくれないんです。
 
――坂井さんの手掛けられるデザインは、斬新でありながら時代と絶妙に調和していらっしゃると感じるのですが、どのようなことがアイデアの源となっているのでしょうか?
 
そう、ちょっとノスタルジックなね。それは個人的な資質だと思うのですが、自分の中に蓄積されている知識が結合しだすんですよ。リアルジャパンプロジェクトさんは僕のやっていることに近いところがあって、実は伊万里のプロジェクトが進行中なんです。僕のつくる伊万里だから、いわゆる”伊万里”ではまったくなくて、ヒントをいうと、とても上品で下品な伊万里をやってやろうと(笑)。もっとヒントをいうとね、歌川国芳の世界ですね。彼は当時のイノベーターでしょ。そういうのは、僕が育った10代のカウンター・カルチャーの時代とずっと変わらないんです。僕自身もね。時代はどんどん変化をしているし、つくる道具も変わっていく、コミュニケーションをするメディアというものも変わっていく。でも、自分がつくりたいものというのは、あまり変わらないんです。あとはバッグと杖をやっていますね。このバッグも、かなり不良のバッグをつくろうと思っているんです(笑)。もっと、人に語れるバッグ。このバッグの周辺にいる人たちが、そのバッグに対して話題を振るような、赤ん坊みたいなものです。赤ん坊がいると、みんなそこに話題をもっていくでしょ。そんな存在のバッグをつくろうとしているんです。杖は、大学の方でセンサーを搭載した盲導犬に代わるものとしてつくっています。純粋にデザインとして美しいものをね。だから意外と工芸的なんですよ。工芸と工業って、どちらもおもしろいですよね。いまはどちらかというと、工芸的なものに関心がありますが。
 
――”工芸”ということですが、日本の伝統工芸についてのお考えもお聞かせください。
 
適度なアップデートをしていかないと、その文化は死んでしまうと思うんですね。かといってアップデートしすぎると、というか、変えすぎるのはよくない。能楽でいう”守破離”です。そういうことをしていかないと、きっとだめじゃないかな。もっと単純な言い方をすると、ルイ・ヴィトンのように何百年も受け継がれてきたブランドというのは、一種の花器だと思うんです。そこにマーク・ジェイコブスのような新しい花を挿しこんでいく。グッチだったら、トム・フォードだったりね。そういうことで、歴史を踏襲しながら新たな遺伝子を変形させ、また新しいものをつくり続ける、というのがヨーロッパのメジャー・ブランドだと思うんです。
 
――坂井さんのお父様のご生家は京都にある老舗の帯屋さんだと伺いました。そのことは坂井さんに何か影響を与えていらっしゃいますか?
 
そうですね。父親の実家が帯屋をやっていて、悉皆屋と呼ぶんですけど、呉服問屋と職人を結ぶいわゆるプロデューサー的な立場ですね。叔母は現在も骨董屋を営んでいて、わりと美術系の家系なんです。若い時は”工芸”って少し古くさいような気がして、どちらかというと嫌いだったんですよ。いまは全くそんなことは思わないですけどね。年をとらないと分からないような魅力というのがあるんでしょうね。10代の頃は、伊万里なんてぜんぜん興味がなかったですし(笑)。親や都市がもっているものを革新したいと思うんです。特に僕みたいな気質の人間はそう思うんでしょうね。
 
――伊万里のプロジェクトの携わることになったきっかけを教えてください。
 
京都のたち吉っていう老舗陶器メーカーのジュニアと知り合いで、彼と話をしているうちにアイデアがでてきたんですよ。伊万里という伝統的な世界の中においても、小さなイノベーションが起こせるなって。僕はイノベーションというのは小さくても大きくてもいいと思っているんですね。世界がガラッと変わるようなことをやってもいいし、ほんの少しだけ何かが変わることをやってもいい。”よりよく変わる”ということが前提ですけどね。ほんのささやかなイノベーションができて、世界中にコレクターのいる伊万里マーケットに一石を投じることができるという、アイデアが見つかったんです。
 
――”和”という言葉を著書などでよくお見受けするのですが、”和”をどのように捉えていらっしゃいますか?
 
伊万里を例に挙げると、日本の伊万里コレクターが思う伊万里の世界ももちろん”伊万里”なんだけど、世界中の国が伊万里をオーダーしている時期があったように、僕は海外からみた視点で捉えていますね。バロック真珠のように、いびつなものがおもしろいな、と思っています。”和”に関して文化的な関心というのはありますが、そういうことって往々にして踏襲してしまうんですよ。踏襲する部分はあってもいいんだけど、それだけじゃつまらない。最近は九谷焼も頑張っていて、髑髏の菓子ボックスなんかをつくったりね。こういうのもいいなぁって思います。製造方法はまったく同じでも、何か工夫をして、違った意味をもつとかね。
 
――これからの伝統工芸とデザインの関わり方について、ご意見をお聞かせください。
 
伝統工芸とデザインが組み合わされたことによって起こるケースというのは、モダナイズしてしまう、とか、現代的にしてしまう、ということが多いですよね。それが本当にいい方法なのかな、と思うことはあります。僕がやっている伊万里のプロジェクトもそうですが、一見、伊万里なんだけど……というものをつくりたいと思っているので。「何をやっているんだ、こいつは」っていうものをつくりたいんです(笑)。
 
――”モダナイズされたもの”ではなく、まったく”新しいもの”として、ということでしょうか?
 
そう、”マーケットにないもの”を、ですよね。それは伊万里でもできるはずです。NS_CONCEPTというブランドで、伊万里やバッグ、杖などを展開していこうと思っていて、それは全部デジタルとは関係ないんです。品種は違っても、同じようなユーザーが購入することを想定してね。
 
――坂井さんのデザインと伝統工芸の融合はとても楽しみです。坂井さんだからこそ導きだせる方向性やカタチというのがあるのだと思います。
 
挑戦ですよね。古いままでいいとは思っていないんだけれども、進化のさせ方が間違っているケースがある。こういう進化はたぶんみんな認めていないだろう、っていうかね。工芸はある種のハンドメイドみたいなところがあって、一点一点少しつづ違うというのが工芸ですし。工業は10万分の1まで精度が同じですから、それとは違います。”ものを買う”という文化への参加というのもあると思うんです。つくるのもいいけど、購入することも参加の仕方のひとつですから。そういう参加者を増やしていきたいと思っています。
 
――ありがとうございました。
 
 
【プロフィール】
坂井直樹
Naoki Sakai
 
1947年京都市出身。66年京都市立芸術大学デザイン学科入学後、渡米。サンフランシスコでTattoo Companyを設立し、TattooT-shirtを売り大ヒットする。73年帰国後、ウォータースタジオを設立。87年日産「Be-1」を世に送りだし、フューチャーレトロブームを創出した。1988年にはこれまでのカメラの概念を覆すオリンハス「O-Product」を発表。95年、MoMAの企画展に招待出品し、その後、永久保存となる。2004年株式会社ウォーターデザインを設立。以降、数多くのプロダクトを手がける。2008年より慶應義塾大学SFC教授に就任し、デザインと通信技術やUIを研究。現在はNS_CONCEPTブランドの開発に関わる。